『祭り』と『音楽』は浜松の誇り

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皇后さまからも慕われたピアニスト

ショパン国際ピアノコンクール第5回1955年のコンクール初入賞したのは田中希代子ですが、田中希代子は美智子皇后さまが皇太子妃だった頃から慕われていたピアニストです。そして、ショパン国際ピアノコンクールだけではなく、第14回(1952年)ジュネーヴ国際音楽コンクール、第5回(1953年)ロン=ティボー国際コンクールとそしてショパン国際ピアノコンクールの併せて3つの国際コンクールでの日本人初となる入賞者でもあります。

田中希代子の生涯

生まれと留学まで

田中昭代子は1932年(昭和7年)2月5日に東京都で生まれました。希代子の父親はヴァイオリニストの田中詠人、母親は声楽家の田中伸枝です。父親は生まれた娘を一流のピアニストにすることに「希望」を託して「希代子」と名前を付けました。そして希代子の実弟、田中千香士は、NHK交響楽団でコンサートマスターも務めたヴァイオリニストです。希代子は4歳の時に幼稚園の先生からピアノの手ほどきを受けています。そして6歳で小山郁之助に、その後は井口基成に師事しています。

東京女子高等師範学校附属小学校から疎開を経て、同附属女学校へ進学しました。東京音楽学校受験に必要な課程を修了したこともあり、1946年(昭和21年)に同附属女学校を3年で中退しましたが、タイミングが悪くたまたま戦後の学校改革にぶつかってしまいました。そして、東京音楽音楽学校は大学になるために、受験するには新制高校に入り直さなければならなくなってしまいました。そんな理由もあって、それ以上の教育を日本で受けるという当初描いていた教育計画は頓挫してしまいます。この間の1945年(昭和20年)から茅ヶ崎のレオニード・クロイツァーに、その後長期にわたって東京・青山の安川加壽子に師事しています。(安川加壽子は浜松国際ピアノコンクール第2回審査委員長を務めています)

1948年(昭和23年)、第17回日本音楽コンクールに入選しています。翌1949年(昭和24年)、同コンクールの第18回に再び出場して2位特賞を受賞しています。

浜松を楽しみ尽くす件

フランス留学時代

1950年(昭和25年)、安川加壽子の強い推薦もあり、戦後初となるフランス政府給費留学生の一人に選ばれました。そして8月にラ・マルセイエーズ号で渡航することになりました。希代子の両親はこの留学に全てを托すことにして、莫大な借金をしてまで渡航費と滞在費を捻出しています。この時の留学生には田中を含めて合計6人です。他のメンバーは全員男性で、森有正(哲学者)、吉阪隆正(建築家)、秋山光和(美術史学者)、北本治(内科学者)です。フランスへの船中では早朝に1時間だけサロンにあるピアノで自主練習が許可されましたが、希代子はインド洋の波に船酔いでダウンしています。この渡航以後、船が嫌いになりました。8月に出発した船は、9月25日にパリに到着しました。そしてパリ国立高等音楽院に入学して、10月から安川加壽子に紹介されたラザール・レヴィに師事しましたが、その直後に結核を発症してしまい、入院と手術を経て療養生活に入ることになりました。

1951年(昭和26年)、ラザール・レヴィのすすめでパリ国立高等音楽院の卒業試験を受けてみたところ、試験前日まで療養していたにもかかわらず一等賞の「プルミエ・プリ」で合格してパリ国立高等音楽院を卒業しました。ちなみに療養中のレッスンは1日1時間と制限されていました。

1952年(昭和27年)に、ジュネーヴ国際音楽コンクールに最高位特賞を受賞しました。(1位無しの2位、日本人で初の入賞、イングリッド・ヘブラーと同位)。この受賞は、日本人では初の国際コンクール入賞でもあるので、まさに日本音楽界の歴史的快挙となりました。その後、同コンクールに落選したピアニスト仲間の園田高弘に、マルグリット・ロン(20世紀前半のフランスを代表するピアニストでピアノ教育者)のレッスンを薦めて、彼が入門するきっかけをつくっています。

1953年(昭和28年)、パリのサル・ガヴォーでデビュー・リサイタルを開きました、同年ロン・ティボー国際音楽コンクール1位無しの4位(日本人初の入賞)。その受賞の後にマルグリット・ロンがユダヤ人が嫌いということもあり、田中の師であるレヴィと犬猿の仲だったことが理由で順位を下げられたのではないか?!と噂されていました。

全盛期から引退まで

1955年(昭和30年)第5回ショパン国際ピアノコンクール10位になり日本人として初の入賞となりました。3つの国際コンクールに入賞したのも日本人初となりました。そしてこのショパン国際ピアノコンクールでは、前回(第4回)混戦だったこともあり、この年から初めて採用された点数計算機によると、1次予選では5位、2次は19位、3次で6位でした。この年のショパンコンクールも大激戦の様相でした。特に上位の10人は、ほぼ横並びに等しい状態で、1位のアダム・ハラシェヴィチ(ポーランド)と2位のウラディーミル・アシュケナージ(ソ連)の差はなんと0.1ポイント!1位から10位の差も7.6ポイントしか開いていませんでした。そのため、審査員だったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが、ハラシェヴィチの1位に異論を唱えて、アシュケナージが2位で田中が10位という結果に大いに憤慨して、どちらの認定書にもサインをすることを断固拒否してそのまま退席してしまっていたことが、ワルシャワの新聞「エクスプレス」によって、異例の全段写真付きで明らかにされました。その年日本に凱旋帰国して、日比谷公会堂でコンサートを開いています。

1956年(昭和31年)に作曲家の宍戸睦郎と結婚していますが、お互い多忙ということもありすれ違いが続いていき、1959年(昭和34年)に離婚しています。離婚後も音楽仲間として2人は交流を続けています。その後も1959年(昭和34年)までパリ1960年(昭和35年)からウィーンに拠点を移して、ヨーロッパから南米までと幅広い演奏活動を続けていきました。

1960年代初めの頃には、希代子がヨーロッパから一時帰国した際に聖心女子大学に招かれてその当時の皇太子妃(現皇后美智子)の前で演奏しています。皇太子妃は希代子の演奏にとても感動して、演奏後に歓談しています。その際に撮られたツーショット写真を希代子は宝物として、希代子が亡くなるまで自分のピアノの上に飾り続けたといいます。

1966年(昭和41年)に、弟の千香士がNHK交響楽団のコンサートマスターに就任しました。そして就任記念で6月13日に東京文化会館で共演ライヴを行っています。

1967年(昭和42年)12月、一時帰国のつもりで帰国しますが、その後体調を崩してしまい、年末年始に予定されていたのヨーロッパ・コンサートツアーをキャンセルすることになりました。希代子の手の指が開かなくなり、関節が痛み、そして高熱が続きました。病院では過労による急性肝機能障害と診断されました。すぐに治るものと思って、1968年(昭和43年)から東京に演奏活動の拠点を置きます。そして、長期間の投薬治療したにも関わらず症状は好転しませんでした。何回も何回も検査を重ねていき検査の結果、難病の膠原病と診断されて、演奏活動が困難になりました。それでも指のマッサージをしたり、手に直接鎮痛剤を打ちながらコンサートを続けていたが、1968年(昭和43年)3月、京都市交響楽団との協演中で、ショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏した際、第1楽章のコーダに入るところで痛みの為に止まってしまい、あっと小さな声をあげて弾き直しをするという事態になりました。これが希代子がオーケストラと協演した最後のステージとなりました。その後も膠原病は進行していき、様々な療法を試みましたが症状は悪化の一途をたどっていきました。そしてついに1970年(昭和45年)、日生劇場で最後のリサイタルを開いて、完全に演奏活動を引退しました。同年に父親の詠人が亡くなりました。

祭じゃあぁあぁあぁあぁぁぁい!

引退してから

  • 1973年(昭和48年)に国立音楽大学で教鞭をとり、1977年(昭和52年)桐朋学園大学でも教鞭をとっています。
  • 1980年(昭和55年)に脳梗塞で倒れて右半身が不随になりました。この脳梗塞は膠原病治療のための薬の副作用によるものです。
  • 1987年(昭和62年)記念レコード発売しました。
  • 1989年(平成元年)2月19日、午後8時~1時間の枠でTBSラジオ制作『「夜明けのショパン」~よみがえる天才ピアニスト田中希代子~』が放送されました。そしてこの放送が第15回放送文化基金賞・奨励賞を受賞することになりました。ちょうどこの時は、昭和天皇が崩御した直後ということもあり多忙で聴くことができなかった新皇后美智子さまが、放送後にこのテープを聴きたいとのお申し出があり、スタッフがテープを送ったところ、希代子へのお見舞の言葉とスタッフへの感謝の言葉が届けられました。
  • 1993年(平成5年)新日鉄音楽賞・特別賞を受賞しています。
  • 1996年(平成8年)2月22日に、都内の田中希代子の自宅で脳内出血に倒れているところを、レッスンを受けに来た門下生が発見します。そして26日午前に、搬送先である練馬区内の病院で死去しました。享年64です。病院で亡くなり、遺体となった希代子は自宅レッスン室へ安置されました。そしてその日の午後、宮内庁からの車が着き、宮内庁職員がより美智子皇后からの口上がありました。「皇后陛下からの、悲しみで一杯です、とのお言葉を、お伝えに参りました」その時に渡されたのは野の草花でした。そして希代子が大好きだった緑色のリボンと共に美智子皇后が、自ら庭で草花を摘んで作った花束でした。美智子が親しい人に語っていたのは、「希代子さんの演奏は、私の心の支えでした」とも。美智子皇后は、別れのしるしだに草花で作った花束で、深い悲しみを表していました。

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