『祭り』と『音楽』は浜松の誇り

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浜松国際ピアノコンクール

浜松は凧揚げで有名な【浜松まつり】の他に、国際ピアノコンクルールが行なわれる街です。浜松が楽器の街でもあることにも関係があるでしょう。(ヤマハや河合楽器)そして、この浜松国際ピアノコンクールは3年に1度開催されています。第1回目は浜松市制施行80周年を記念して、1991年(平成3年)に開催されましたが、今では国際音楽コンクール世界連盟に加盟する国際コンクールでもあり若手ピアニストの育成と発掘の場でもあります。この浜松国際ピアノコンクールで認められてピアニストが羽ばたいていっています。

ヨーロッパで開催されている主なコンクールには、チャイコフスキー国際コンクールが4年に1回。ショパン国際ピアノコンクールが5年に1回。ロン=ティボー国際コンクールが3年に1回。カール・ニールセン国際音楽コンクールが3年に1回行なわれていますが、2015年にはショパンコンクールとチャイコフスキーコンクールが60年に1度の巡りあわせとなり、浜松国際ピアノコンクールも第9回目が開催されます。

浜松を楽しみ尽くす件

浜松国際ピアノコンクール概要

  • 1991年(平成3年)第1回大会・・・優勝者:セルゲイ・ババヤン(アルメニア)審査委員長:小林仁
  • 1994年(平成6年)第2回大会・・・優勝者:ヴィクトル・リャードフ(ロシア)審査委員長:安川加壽子
  • 1997年(平成9年)第3回大会・・・優勝者: アレッシオ・バックス(イタリア)審査委員長:中村紘子
  • 1998年(平成10年)に国際音楽コンクール世界連盟への加盟が承認されました。
  • 2000年(平成12年)第4回大会・・・優勝者:アレクサンダー・ガヴリリュク(ウクライナ)審査委員長:中村紘子
  • 2003年(平成15年)第5回大会・・・優勝者:該当者なし第2位にラファウ・ブレハッチ(ポーランド)とアレクサンダー・コブリン(ロシア)審査委員長:中村紘子
  • 2006年(平成18年)第6回大会・・・優勝者:アレクセイ・ゴルラッチ(ウクライナ)審査委員長:中村紘子
  • 2009年(平成21年)第7回大会・・・優勝者チョ・ソンジン(韓国)審査委員長:中村紘子
  • 2012年(平成24年)第8回大会・・・優勝者:イリヤ・ラシュコフスキー (ロシア) 審査委員長:海老彰子

浜松国際ピアノコンクールが国際的なピアノコンクールの仲間入りしたのには、第3回から審査委員長を務めた中村紘子の手腕によるところが大きくあります。課題曲に審査員そしてコンテスタントの人選が第1回第2回と比べて変化に富むようになりコンテスタントのレベルも次第に上がっていきました。そして優勝していなくても、それから後にショパン国際ピアノコンクールで優勝する人も輩出したり、世界的に活躍している上原彩子もかつての入賞者です。

主な日本人参加者

  • 第1回・・・ 南雲竜太郎(第4位)、長尾洋史(第5位)、三輪郁(奨励賞)
  • 第2回・・・ 柴田彩子(第3位)
  • 第3回・・・ 大崎結真(第5位)
  • 第4回・・・ 上原彩子(第2位、日本人作品最優秀演奏賞)、奈良希愛(奨励賞)
  • 第5回・・・ 関本昌平、須藤梨菜(ともに第4位)、鈴木弘尚(第5位)
  • 第6回・・・ 北村朋幹(第3位)
  • 第7回・・・ 尾崎有飛(奨励賞)
  • 第8回・・・ 中桐 望(第2位)、佐藤卓史(第3位、室内楽賞)、内匠 慧(第6位、日本人作品最優秀演奏賞)
祭じゃあぁあぁあぁあぁぁぁい!

ピアニスト中村紘子

カレーのCMに一時出ていた中村紘子ですが、本名は福田紘子です。

1944年(昭和19年)7月25日に、陸軍少佐野村典夫と曜子(旧姓中村)の長女として、疎開先の山梨県東山梨郡(現:甲州市)で誕生しました。ただし戸籍上は曜子の妹として入籍されています。母親の中村曜子は、印刷会社経営を経て、1967年(昭和42年)以降に、銀座の画廊「月光荘」の経営に加わり、ソ連美術を扱って成功を収めることになりました。母親曜子の主宰する会員制サロン「サロン・ド・クレール」には小山五郎、千宗室、三島由紀夫、浅利慶太、相沢英之、中曽根康弘、石田博英、円城寺次郎、嘉門安雄、谷村裕、永野重雄という政財界人や文化人が集っていました。月光荘ですが、世界救世教に、レオナルド・ダ・ヴィンチの贋作「『岩窟の聖母』の聖母の顔のための習作」を21億5000万円で売り込もうとした事件(月光荘事件)を機に没落することになり、1989年(平成元年)に負債総額188億円の経営破綻をしています。

中村紘子は3歳半からピアノを習い始めました。桐朋学園の「子供のための音楽教室」の第1期生です。4歳から井口愛子に師事しています。その同期には小澤征爾、堤剛、江戸京子などがいて、この世代がいわゆる桐朋の黄金時代とされています。慶應義塾幼稚舎在学中の、1953年から1954年頃に両親が離婚したため母親に育てられることになりました。

1954年(昭和29年)、全日本学生音楽コンクールピアノ部門小学生の部で全国第1位入賞しています。慶應義塾中等部に進み、1958年(昭和33年)全日本学生音楽コンクールピアノ部門中学生の部で全国第1位入賞しています。1959年(昭和34年)、日本音楽コンクールで第1位特賞を受賞しています。1960年(昭和35年)に岩城宏之指揮の東京フィルハーモニー交響楽団の演奏会にソリストとしてデビューしました。そして同年に、NHK交響楽団初の世界ツアーのソリストに抜擢されることになりました。その際に、同行指揮者の外山雄三と岩城宏之の部屋を夜な夜な「往復」したことで師匠が激怒して、井口門下を破門されることになりました。

その後、桐朋学園女子高校音楽科を中退して渡米します。日本人として初めてになる全額奨学金を獲得してのジュリアード音楽院に進むことになり、ロジーナ・レヴィーンに師事しました。

1965年(昭和40年)第7回ショパン国際ピアノコンクールで、第4位入賞と最年少者賞を併せて受賞しています。この時の1位はマルタ・アルゲリッチ(クラッシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの1人)です。

ショパン国際ピアノコンクールでの入賞は、過去に1955年(昭和30年)第5回ショパン国際ピアノコンクールで、日本人として初入賞した田中希代子以来の10年ぶりとなる二人目の入賞となりました。

このショパン国際ピアノコンクール入賞以後は、国内・海外で演奏活動を続ける一方で、ショパン、チャイコフスキー、アルトゥール・ルービンシュタインはじめとする様々な国際コンクールの審査員を務めています。

プライベートでは1974年(昭和49年)9月に芥川賞作家庄司薫と結婚しています。演奏旅行で家を空けることの多い中村の愛猫を庄司が預かっているうちに交際へ発展していき、結婚する運びになりました。そして、ノンフィクション作家・エッセイストとしての顔も持っています。1989年(平成元年)には「チャイコフスキー・コンクール」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。

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