『祭り』と『音楽』は浜松の誇り

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田中希代子を語る

田中希代子再評価

田中希代子は海外での演奏活動が長かったということもあり、日本よりも海外のでの知名度は高くなっています。亡くなった現在でも「東洋の奇跡」と呼ばれていて、支持を得ています。

日本国内での田中希代子の認知度が下がるきっかけの一つとなったのが、病気のために引退を余儀なくされたのと前後してはなやかに登場した中村紘子が多くの聴衆の支持を獲得したこともあります。中村紘子は、一時期田中希代子が師事していた井口の妹である井口愛子に学んだ経歴を持っています。そして中村紘子が、1965年第7回ショパンコンクールで第4位入賞してから、自分がショパンコンクールの日本人初入賞者であると言い続けてきたたことによって、本当は日本人初入賞者の田中の存在そのものがないがしろにされてしまい、国内での印象が希薄になってしまったことも否定できません。ちなみに今でも中村紘子はホーム―ページプロフィールで「ショパンコンクール日本人初入賞」と表記し続けていますが、中村紘子も本当は自分が初ではないことを分かっていながら、あえて載せつづけているということに、中村紘子の自己顕示欲が現れているとも言えるでしょう。音楽家は自己を表現することがごく当たり前でもありますが、自分が常にトップでいたい。という気持ちが非常に強いからではないでしょうか。自分自身もまだまだ第一線で活躍していることもあり、引退した人のことなどどうでも良い。自分さえ満足できれば、他はどうでもいいという自己中心的な考えがそのような行いをしていると思います。先人に尊敬の念を抱くことができない中村紘子の行いは、その反対に恥ずべき行いだとも思えるのですが、恥ずべき行いと思わないところが、中村紘子なのでしょう。中村紘子は田中希代子の演奏を力強く情熱的な演奏だったと回想しています。

田中希代子は彼女がピアニストの時に弾いていた音源の復刻に関しては、「自分は過去の人間だから」と消極的でした。しかし1996年(平成8年)に山野楽器から記念CDが発売されたことで、田中希代子が再び日本国内でも認知されはじめました。2005年(平成17年)1月に、音楽評論家の萩谷由喜子が『田中希代子―夜明けのピアニスト』を出版しました。これがロングセラーとなり、田中希代子が倒れてからちょうど10年目でもある翌2006年(平成18年)2月22日に、キングレコードから没後10年特別企画で発売された2枚組CDが大きな反響を呼ぶことになりました。翌2007年(平成19年)にも同じくキングレコードが次々と音源を復刻しています。門下生をはじめとして、田中希代子の記録を後世に遺そうとする人々の努力もあり、国内での評価と認知度は少しずつではありますが、確実に回復しています。

浜松を楽しみ尽くす件

弟子への教え

膠原病と診断が下されるまで、少しでも回復することに望みをかけて、ありとあらゆるいろいろな治療を受けて続けていきました。、弟の千香士の言葉によると希代子の身体の痛みは「からだを刀で切り刻まれる痛さ」だったといいます。そしてその当時の医師の説明によるとその痛みは、病気によって、内臓を包む膜が溶けてなくなってしまうため、それぞれの臓物が直接ふれあうことからの痛みだといいます。その痛みを和らげるための手術が何度も行われていきました。

もう希代子の力だけでは入浴できなくもなりました。そしてその介護の役目は弟・千香士の仕事となりました。男の力がなけらば支え切ることが出来なくなってしまいました。足腰が確実に衰えていき、手の指も変形し始めていきました。自分の身体が一日一日と悪くなっていくことに、彼女は自分とは何者なのか。そして自分はこれからさきどうやって生きて行けばいいのか。そして自分は何者なのか?!と今まで一流のピアニストになるべく日々努力を重ねてピアノと向き合わない日がなかっただけに、自分の心の内側と自分のアイデンティティを否応なしに身体の痛みと共に向きあわなくなければならない日々が35歳から8年間続きました。

田中希代子が弟子へ教えたことは、「極限まで耳を澄まし、自分の出した音を確認しながら弾く」ということです。

門下生へのレッスンは、田中希代子が実演してみせることが不可能だったということもあって、口頭のみで行われました。そして田中希代子の言う、深い内容を理解し把握することに、大変な集中力を要求されたといいます。

そして田中希代子自身も弟子のピアノを聴くこと時にはものすごい集中力で、田中希代子がいるレッスン室の空気は違っていたと現在国立音大付属高校でピアノ教えている吉野康弘は語っています。

田中希代子は「小さい子は見ない」ということを公言していましたが、例外的に9歳の頃から時折レッスンをつけていたという愛弟子がいます。9歳の時からレッスンをみてもらっていたのは田部京子です。田部京子は「先生は、お弾きにならないにもかかわらず、楽譜に指づかいをサーッと流れるように書いてくださるのですが、それは普通ではとても思いつかないようなものでした。でも、その通りに弾いていくうちに、それはやがて研究し尽くされたベストな指づかいであることが実感してくるのです」そして、「先生のレッスンにおける、沈黙の時のすばらしさが、私の今の音楽を作ってくれたと思います。私が弾き終わると長い沈黙があり、やがて『とてもいい』と一言があり、そしてまた長い沈黙がありました。」と語っています。

ピアニストの時代の田中希代子の演奏スタイルは、テンポはほとんど揺らさずに、そして速い曲ではとことん速目のテンポで、でも表情豊かで、かつどんなに速くても一音一音がはっきりと聞き取れるほど正確な打鍵が高い評価を受けていました。

そして田中希代子は「音楽は自己表現」と考えていて、特にこれといって奏法にはこだわることはなく、人によって指の長さや太さ、重みなど全てが違うということに着目していたこともあり、「どのような弾き方か」ではなくて、「どのような音で表現するか」の方に重きを置くという独自の演奏スタイルを貫いていました。そしてそんなそんな弾き方をする田中希代子は、表現力重視のピアニストのさきがけともいえます。その田中希代子が活躍する前とその当時の音楽界では、奏法を重視する世界だったので田中希代子の表現はまさにさきがけと言えるでしょう。表現力を重視する彼女は「ある程度の基礎は必要、結局はそれ以上のことを自分が見つけて行くことが重要」とも述べています。その独自の運指法も門下生には評判となりました。

田中希代子がパリで師事したラザール・レヴィは、希代子の演奏にいたく感動して、レヴィが希代子の初めて演奏を聴いた第一声は「トレビアン!」だったといいます。ラザール・レヴィは、安川加壽子にに宛てた手紙で、希代子の演奏を「深みがあり、趣が深く高尚で優美。降参だ」と手放しで賞賛しています。

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門下生

  • 井出久美子
  • 岩野めぐみ
  • 小賀野久美
  • 河地恵理子
  • 菊池洋子
  • 小山恵
  • 坂野伊都子
  • 佐久間ちさ
  • 佐藤裕子
  • 志賀雅子
  • 鈴木謙一郎
  • 田部京子
  • 田村明子
  • 戸田洋子
  • 永田郁代
  • 林田賢
  • 福田伸光
  • 増田優子
  • 三界晶子
  • 吉澤京子
  • 吉野康弘
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  • 米持隆之
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